Mr.all-rounderへの歩み

「法律・政治・経済・趣味・資格」の総合力が日本一位であろう人間が、ゲーム、プラモデル、ジグソーパズル等趣味のこと多めで、様々なことを好きなように書いていきます。

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「やっかみ」という言葉がある。 基本的にレベルが合わないとお互いのためにならない

今振り返ると、私も昔はされることは少なくなかったなと思います。こちらは気に留めてないのに勝手に劣等感持ってる人って昔の職場にもいて人間臭くて面白かったです。

負け組のアホに興味ないのに。

 

「やっかみ」という言葉がある。これは「妬み」(ねたみ)や「羨み」(うらやみ)と同じような意味を持つ言葉で、相手の成功や優れた点を見て、たまらなく嫌な気持ちになり、何かしてやりたいような心境になることを云う。だからこの言葉には、自分の中にある劣等感をことさら刺激され、相手を妬み、羨やみ、時には怨(うらみ)、というような心理状況に陥ることがある。

この問題は、人間の心の奥にあって、時には人間の運命を支配しかねない問題に発展することもある。何か我々人間というものは、人が成功を掴んだと見るや、「何であの人があんなに?」と思いがちだ。表面では、「よくやったね、素晴らしい」と褒めながらも、心のどこかでは、「何よ、あのひとばかり、注目されて」などと思ってしまうものである。

例えば、最近の事件で隣の娘が、名門幼稚園に入れて、自分の娘が入れないものだから、隣の娘を殺害に及ぶというような痛ましい事件も起きている。まさにこの事件などは、人間の「やっかみ」という心の状態が引き起こした怖い事件である。そこまで行かなくても、シドニーオリンピック女子マラソンで金メダルを獲得した高橋尚子が、何度をテレビに出ているのを見て、「勘違いしていないか」というマスコミによるバッシングが始まったが、これなども、やはり人間の「やっかみ」の気持ちが引き起こした騒動と言って差し支えあるまい。

大体、日本人は、よその国よりも、他人に対して、「やっかみ」が多いように思う。この理由は、、個人主義というか、自己というものを西洋ほどに明確に意識し得ない日本人の個人意識の問題が影響を及ぼしているのかもしれない。日本人は、他人が異質な才能を示すのを、あんまり心地よく思わない民族である。特に異質な才能を持つ人間は、バッシングされる傾向が強い。日本には「出る杭は打たれる」という嫌な言葉があるが、これなども「やっかみ」の心境が引き起こす、日本人特有の態度と言えるであろう。

特に日本人は、才能ある人間が、成功を収め、その後に没落していく様を眺めるのが至って好きである。そう言えば平家物語のテーマも、天下を我が手にした平清盛とその一族の没落を、仏教的な厭世観で装っているが、見方によれば、「ほれ見ろ・調子に乗るとああいう様になる」という一種の「やっかみ」心が裏にあるような気がしないでもない。とすれば「わび」や「さび」などという日本文化の根底にあると言われる精神の中にも、どうも「やっかみ」という気持ちが潜んでいる可能性もあるかもしれない。大体咲き誇っている桜の花が、散るのを、美しいなどと、讃美しまくる民族は、世界広しと云えども日本人をおいて他にはない。日本人が、散る花を美しいと感じるのには、心のどこかにそれを美しいと感じる集合的な無意識が心の中にあって、いつの時代にか、その観念が心の奥底に宿ってしまったのであろうか。

このように日本の文化全体をたったひとつの言葉「やっかみ」の視点から見てくると、実に様々なことが見えてきて面白い。歴史の中で見ても、日本人は、絶頂を極めたものが、滅びの道を辿ることに、異常なほどの愛着の情を持つ。神話の時代のヒーロー像を見てみよう。するとオオクニヌシにしろヤマトタケルにしろ、没落者や非業のうちに死を迎えた人物が真っ先に浮かんでくる。また歴史時代に入っても、聖徳太子しかり、菅原道真しかり、源義経しかり、織田信長しかり、人気があるのは、ほとんど没落した者達である。

おそらくこの人気の裏には、日本人のコンプレックスがそれこそ複雑に介在していることは間違いない。つまり生まれも高く、才能を持った人間が、絶頂を迎え、そして一瞬に滅び没落していく様に「やっかみ」の心が一瞬満足を覚えた後に、それを「哀れ」「可愛そう」と見て、無意識的に「美」とすり替えてしまうのである。これはまさに「やっかみ」からの昇華作用と呼ぶことができるであろう。簡単に言ってしまえば、異才な者が、考えられないような絶頂を迎えて、自分とはまるで別世界に行った者が、また自分の世界にに返って来て、安心を得るような感覚である。

私は、日本人特有の「判官贔屓」という心理にも、どこかにこの「やっかみ」からの昇華作用が介在しているように思えてならない。義経さんを「かわいそう」とか「悲しい」と感じる心の奥には、実は自分のえげつないほどの「やっかみ」という醜い心の一面が眠っている可能性もある。その醜い姿を美しく彩る仕掛けが、何処かにあるのではあるまいか。もちろんあんまり気の進まないことではあるが、自分自身の中にある心と正対してみることは、自分とこの民族の心の有り様を探る一歩になるかもしれない。もしかするとそこに日本文化の基層にある観念の一端が、本当に姿を見せるかもかもしれないのだ。佐藤


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2001.3.12

 

 

このサイトで的確に書かれてますね。

 

 

それと、関連して述べるとレベルが合わないと基本的にお互いのためになりませんよ。